千羽鶴で広島だけでなく全世界の平和を願いたいですね。
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愛妻と娘が一生懸命に千羽鶴を折っているので、「どうしたの?」と聞くと、「学校から広島に千羽鶴を送るの」と教えてくれました。愛妻と娘が千羽鶴を折ることによって、広島のことを考え、さらに平和のことを考える時間を持つことは非常に有意義だとおもいましたね。私も千羽鶴を折るのを手伝おうと一瞬思いましたが、不器用でキレイな千羽鶴を折ることができないのですよね。続けて「広島に送る千羽鶴ってどんな大きさや色でも良いの?」と聞くと、広島に送る千羽鶴には規定があるのですね。全く知りませんでした。ですが、特別難しい規定があるわけではなく、ただ折り鶴ブースの広さに限界があるのです。規定のサイズ内に収まる千羽鶴でなければ展示出来ないということはないのかもしれませんが、大きすぎると迷惑になることは確かですよね。では、その規定のサイズはというと、長さ150cm(1.5m)以内、幅25cm以内の千羽鶴となっています。このサイズは、千羽鶴の平均的なサイズのようです。何事も大きければいいというわけではありませんからね。
愛妻と娘が平和の気持ちを込めて送ろうとしている広島の千羽鶴は、原爆の子の像のモデルとなっている佐々木禎子さんが自分の延命を願って折ったことから千羽鶴は始まっているらしいですね。佐々木禎子さんが折鶴を折り始めたのは1955年の8月のことでした。名古屋の高校生のお土産として折り鶴が贈られたことから折り始めたそうです。元々、折り鶴には願掛けの意味が籠められており、佐々木禎子さんが始めた折り鶴は、多くの入院患者に伝わり、早く元気なれるようにと願をかけながら佐々木禎子さんや多くの入院患者達は折り鶴を折ったそうです。そして同年の8月の下旬にはすでに1000羽の鶴を折っていたそうです。ところで、千羽鶴にはいろいろな色で折られていますが白と黒の千羽鶴は見たことがないですよね。 基本的に、千羽鶴はどんな紙でも、どんな色でも折り鶴にして千羽鶴として贈っても問題ありません。 ですが、黒はグラデーションにしたときに色のバランスがとりづらいなどのことがあるので、あまり好まれては使用されていないようですね。
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1945年8月6日、2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆した。同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。1954年8月の検査では異常なかった。しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べた所、白血病であることが判明、長くても1年の命と言われ入院した。佐々木禎子さんが在籍していた広島市立幟町中学校にある折り鶴の碑1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子さんだけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価な物で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。 1955年10月25日に亡くなっています。